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小耳症(永田法)の軌跡と新たな出発

永田小耳症形成外科クリニックは、院長・永田悟医師の逝去にともない、令和4年1月に閉院いたしました。このブログと、永田法による小耳症手術は次世代に引き継がれ、現在も行われています。小耳症手術をご検討の方は、ぜひご覧ください。

1993年アメリカ形成外科学会誌に私の小耳症の論文が記載されてから
まず飛び込んで来たのは
フランス形成外科学会を代表したフランソワーズ・フィアミン医師「女医」だった。
フィアミン医師はアメリカのブレント医師からブレント法を学んだ人で私より10歳年上だった。
1980年代にアメリカでは6回の手術を要するタンザー法から4回の手術のブレント法が主流となっていた。
私の手術を見学し私の論文を読んだフィアミン医師は
激しく興奮し・直ちに私に
フランス形成外科学会へ招待公演の依頼をしてきた。

パリ凱旋門そばのビゼット病院がフィアミン医師の職場だった。
フランス学会終了後
何回かその病院で小耳症手術の指導した後
モンマルトルの歌声喫茶に連れて行かれた。
歌えと言われた私は
学生時代にアルバイトで歌っていたカンツォーネを思い出し
ギターをひきながら[ケサラ」[故郷」をイタリア語で歌ったのだ。
なんと・そこにいた客全員が
いっしょに声を合わせて歌っているではないか。
パリなのにイタリア語で・・・・・。
拍手の嵐の後・その店のプロ歌手がお返しに「サクラ・サクラ」を
日本語で歌ってくれた。感激。

帰り道の11月のパリは寒かった。
セーヌ川のほとりを歩いていた時
足元に大きなヤツデの葉が『がさっ』と落ちた。
これがシャンソンで有名な「枯葉」なんだ。
もっとひらひらと静かに落ちるイメージだったのに。

その後フィアミン医師は数回来日し私の手術法を学び
ヨーロッパの学会で[永田法]を発表し続け
ヨーロッパ中の小耳症患者を集めるようになった。
1992年・1993年・アメリカ形成外科学会誌に
私の小耳症の5論文が巻頭に載った。
解剖学的に不完全な耳しか再建出来ないタンザー[Tanzer]法から、
細部構造に至るまで完全な耳が再建出来る方法へ
手術の開発をいかに行ったのかと言う論文だった。
その後世界の反響はすざましく
何年経ってもリプリントの要望が絶えなかった。
それに答える郵送代金だけでも膨大となった。
その数多くの手紙の中に
Tanzer本人から2通も手紙が届いた。
要約すると
1通目はcongratulation[おめでとう」との内容。
2通目は76歳のTanzer本人が結婚するという内容だった。しかも新婚旅行先を日本にするかもしれないという事だった。

1959年肋軟骨移植による小耳症に対する耳再建術が
Tanzerにより報告されて以来世界中で用いられテキストとなっていた。
もちろん日本でもTanzer法だった。
それゆえに当時の私にとってTanzer氏は天上人だったのだ。

1度として会ったこともなかった人なのにだ。
夢か幻かそのTanzer氏から2通もの手紙。
しかも、「Tanzer氏本人はリタイヤーしたから
今後の世界の小耳症の治療および発展を担ってくれ。」とのこと。
43歳当時の私にとって強烈な手紙だった。
科学者としての愛情がいっぱいにこもった手紙だった。
それからの私は情熱の科学者に大きく変わった。