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永田小耳症形成外科クリニックと愉快な仲間たち

愉快な仲間たちの秘密の会話

科学者は、自分の開発した事を、論文にし、


世界中に認知されている科学ジャーナルに論文を投稿して


世界の判断を仰ぐ。


必ずしも一流ジャーナルに掲載される事になったからといっても、


後世まで引き継がれるものとなるのか、ならないのかは、時間と共に判明してゆく事になる。


 


形成外科医にとっては、自分の書いた手術法が


世界に広く行われるようになって価値が高まってくる。


 


私の書いた小耳症の論文が15年経っている今日、


エジンバラで行われた国際耳再建学会では


ほぼ世界中で使われるようになった事が明確になった。


 


しかも、私の教えた門下生同士の学問のバトルとなった。


ブレント法はほぼ消滅した事が明らかとなった。


ブレント自身もそれを認識しており、


あと2年で引退するとの事だ。


 


彼が私にくれた贈り物が


耳の模型の耳たぶに穴を開け、丸いリングが差し込まれたキーホルダーだった。


その名前がしゃれていた。


Ear Ring 」


すなわち、「耳の輪


もっと深く捕らえると


耳再建の研究に、一生を費やしている世界中の形成外科医の


集まりの仲間としての輪


耳再建は、形成外科の中で、最も困難とされる分野である。


だからこそその困難な分野に携わり、各国同じ苦労を共にしている。


 


それぞれが、苦労を持ち寄りとなり、学問の進歩を実現し


小耳症患者さんたちに、新たな技術を提供できる。


 


これが、耳の輪、EAR RING なのだ。

私の教え子であるドイツのラルフ・シーゲルト医師は、


1997年に私がドイツで行われた第2回国際小耳症学会に招待されたとき


主催大学であるリューベック大学の助教授であった。


私は、その時、小耳症手術法の公演と、デモンストレーション手術を行った。


 


それ以来、シーゲルト医師は、ブレント法から方向転換して、


永田法での小耳症手術を行うようになった。


 


その後、ジュッセルドルフのレックリングハウゼン大学から教授として引き抜かれ


ドイツ中の小耳症患者を手術するようになった。


 


また、彼は、2008年9月、第31回ヨーロッパ顔面形成外科学会・


「The Europian Academy of Facial Plastic Surgery 」を、


ジュッセルドルフで、開催する主催者となっている。


 


顎顔面を治療する形成外科医・耳鼻科医・口腔外科医が集合した


ヨーロッパでも1・2を争う大規模な学会となっている。


 


その学会のときに、「永田医師に招待公演として来てくれないだろうか?」


と、打診された。


私は「いいよ。」と返事した。


すると、非常に喜んでくれて言った「永田医師は、世界中の学会で、引っ張りだこだから


来てくれないのではないかと心配していたのだが、


承諾してくれて、とてもうれしい。」と、言う。


 


それに対して私のほうとすれば、


逆に、関連分野の最新情報が入る良いチャンスなので


むしろ、純粋にうれしい。


 


いつも今まで、こんな事を繰り返してきて、私の患者さん達にも


最新の技術導入を幅広く取り入れることが出来ているのだ。


 


科学技術はこうして、ギブアンドテイクなのだ。


 


 


 

今回のイギリス・エジンバラでの国際小耳症形成外科学会で、


デモンストレーション手術を行ったのは、


私と、ドイツのラルフ・シーゲルトと、フランスの、フランソワーズ・フィアミンの3名だった。


フィアミンもシーゲルトも、私の教え子である。


 


フィアミンは、


パリの中心のビゼット病院でフランスでは最も多く小耳症手術を行っている女医である。


 


ラルフ・シーゲルト医師は、


ドイツ・ジュッセルドルフのレックリングハウゼン大学病院で教授となっており、


ドイツで最も数多くの小耳症手術を行っている医師である。


 


私が手術を、行った患者さんは、


事故のため、頭の皮膚全体もろとも耳も含めて全て無くなった患者さんで、


頭の血管膜も破壊されているために、再建が


最も困難なケースだった。


 


ドイツのシーゲルトは前傾耳垂をした耳垂残存型小耳症の症例。


 


フランスの、フランソワーズ・フィアミンは、通常の耳垂残存型小耳症の手術。


 


それぞれの手術室からの手術の画面がモニターを通じて


学会場に中継されており、質問形式となった。


 


マイクが、今どこの手術室に、通じているのかが、画面の下にランプがついて


表示するようになっていた。


 


日本・ドイツ・フランスの部屋へ順繰りにマイクが回っていった。


 


会場では、司会者がいて司会をしていた。


 


フィアミンが、肋軟骨膜を付着させたまま肋軟骨を採取した時。


カナダのシックキッズ病院の女医であるレイラ・キャスライ医師「女医」が司会をしていた。


マイクはフランス部屋に入っていた。


司会者はそれに気がつかないまま、


「フィアミン医師のように、肋軟骨膜を付着させたまま肋軟骨膜を摘出すると、


胸壁が凹んでしまう。後で、胸壁の再建が必要となる。


だから、永田法のように軟骨膜は体に残して軟骨本体のみを採取すべきなのだ。」


と強い口調で述べた。


これが聞こえたフィアミンは、手術の手が止まってしまった。


司会のキャスライ医師も、私の門下生である


私の門下生である二人の女医同士が、激しい討論バトルとなった。


 


当然私の改良した新しい方法についてきているほうが、理論上優位に立つ。


相当大変なバトルとなった。


 


 


 


 

今日の、小耳症外来も忙しかった。


新患の患者さん3名と再診の患者さん5名。


新患の患者さんの説明は長時間を要するので大変だ。


 


最初に完全に理解をしていただく事が最も重要で、


そうしない限り必ず疑問点が出て患者さんは不安となる。


私はまだ時差ぼけが残っていて、


睡魔と闘いながらの説明をしたので疲れてしまった。


が、患者さんたちは全てを理解されれ納得頂き、


手術予約をおとりになった。


 


午前中は、小耳症の退院の患者さんが1名と入れ替わりに


明日の手術予定の小耳症患者さんが1名入院された。


包帯交換を済ますとすぐに眠くなる。


時差ぼけを解消したいものだ。


 


 

1992年及び1993年にかけて、「小耳症手術の新しい手術法」の私の論文が


アメリカ形成外科学会誌に掲載されてから今、2007年となった。


振り返ると、15年も経っている。


 


論文が出た直後から、世界中の大学病院、形成外科学会などから大反響が起こった。


常に毎年最低でも3カ国からの招待講演を依頼されて、


私は忙しい人生となった。


 


まずは、1992年フランス形成外科学会からの招待から始まった。


そのときから


フランスのフランソワーズ・フィアミン医師「私より10歳ほど年上の女医」を育てた。


彼女は元は、ブレント法を行っていたのだが、その後は、ヨーロッパ中に「永田法」


を広める事となった。


 


しかしブレント法の影響を完全に拭い去れなかったために、


中途半端な永田法となってしまった。


 


それゆえ、今回のエジンバラで行われた小耳症学会においては、


他の国の、私の教え子達から、バッシングを食らう事となった。


 


カナダ・トロントのシックキッズ病院の医師からは、


「肋軟骨膜ごと肋軟骨を摘出してはいけない。


フィアミン医師のように肋軟骨膜を含めた摘出を行うと胸が変形してしまう。


だから、永田法を純粋に守り肋軟骨膜は生体に残して、


耳を作って残った肋軟骨は、再びみじん切りにして、


肋軟骨膜の中に入れ戻すべきなのだ。」


とバッシングを受けた。


 


さらに、フィンランドの医師からは、


「自分はフィアミン医師から間接的に、永田法を学んだ。


その際に皮弁を作るときには、皮膚の下の茎を残さなくても良いとフィアミンは教えた。


しかし、それは本物の純粋な永田法とは違っていたために、


フィンランドの患者は、皮膚が壊死となり患者の再建した耳が犠牲となった。


だから、本家本元の日本に行って、永田先生の手術を直接見て学んだ。


その後は良い結果となった。


だから、皮弁の作成に当たっては、一部、皮膚下に、茎を残すべきだ。


これは皮弁が安全に生きる血行のために重要な事で、永田の論文に書いてある。


フィアミンはうそを教えた。」とまたバッシングを食らった。


 


私の手術法は今も進歩を続けているので、


私の教え子達は、私の進歩について来れる人とついて来れない人とに別れてくる。


フィアミンは、残念ながらついて来れない医師となってしまった。


 


それに対して、台湾のチャングン大学・を筆頭に


カナダ・トロントのシックキッズ病院・


カナダ・エドモントンのアルバータ大学・


などは、私の進歩に、ついてきている。


なぜなら、彼らは,ことあるごとに、私を教授として頻繁に行き来して学びに来るからだ。


 


 


それに対して、日本国内は、残念ながら、


私のレベルについてこれる大学などの施設は、どこもない状態となった。