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小耳症(永田法)の軌跡と新たな出発

永田小耳症形成外科クリニックは、院長・永田悟医師の逝去にともない、令和4年1月に閉院いたしました。このブログと、永田法による小耳症手術は次世代に引き継がれ、現在も行われています。小耳症手術をご検討の方は、ぜひご覧ください。

誰もみんなが死ぬまで25歳時の若さのまま

生きることが出来たら、どんなに違った世の中になるだろう。


You-Tube で、いろいろな歌手の最盛期を見ていて思った。

今の25歳の歌手と、かつての歌手が25歳だった時の歌唱力に注目していた。


昔の映像まで見ることが出来る You-Tube だからこそ出来る事である。

まるで、「BACK TO THE FUTURE 」のように、

タイムマシーンに乗ったような気がしてくるから不思議だ。


これを使えば、現在の25歳の歌手と1980年代の歌手が25歳だった時との、

比較が出来てしまう。


みんなが、ほぼ、生まれた順に、年を取っていくことは間違いない事だと思いがちだが、

さにあらずという事もある。


科学的には、「比較するときに、条件を同一にすること」が必要だ。

私は、すぐに、そのような思考回路になる。


また、逆の見方も出来る。


同年齢の歌手同士を比較すると、年を取っても

不思議と声量も外観も変わらない歌手もいれば、

さらに、年を取っていけば、いくほど、良くなっていくという驚くべき人までいる。


通常では、年を取れば、少しずつ衰えてくるものだ。

わずかな時しか経過していなくても、

急激に衰え、昔の面影を、魅力を、見る影も無くなった人もいる。


このように、時と共に、

人は変わっていくものだが、

その変わりかたには、大きな個人差がある。


今よりも、年を取った明日の方が、

魅力的になるような人生を送りたいものだ。


少なくとも医学的に老化防止には、規則正しい生活と食事

そして良質のビタミン摂取が毎日必要。

毎日、細胞が酸化される事で、破壊され老化していく事を防いでくれるのが

ビタミンEの働きだ。


あとは、心の問題。

常識内にこだわって、こじんまりと萎縮してしまわないで、

好奇心や、情熱を、いつまで燃やせるか,という事。


いつまでも若さを保つ人を見て発見した共通点は、

常識を打ち破ったスケールが大きな人、ということだ。

途中で、当時のその国の世間の常識とは合わず、

たとえ、バッシングを受けても

志を貫いた意志の強い人だ。


時を経て、ようやく常識が大きく変り、見直される人になるか、

あるいは、時間がたって、

その人の事を、遅ればせながら

ようやく世間が理解できるようになった時

常識を変えるきっかけの第1人者人として認められる時が来る。


そのような人は、もともとのエネルギーがあった人だから、若い。



今年も、

クリニックのポストには

多くの年賀状が届いていた。


多くは、小耳症の患者さんや、その御家族からのものだ。

いろいろな近況が書きこまれている。


大学生になった方から、

うれしい近況報告が書き込まれている。


読みながら、10年近く前の、その患者さんの

小耳症手術の大変だったことを

思い出していた。


なつかしい。


また、初回の手術が終わり、

2回目の手術を今年控えている小耳症の

小学生本人から自筆で書かれた年賀状や

ご家族からの年賀状など


それぞれ、日本中から、送られてきている。


一枚一枚、思い出しながら、

かみしめながら、読ましていただきました。


ありがとうございます。



元日も医局で過ごし

あっという間に1月2日になった。

もう全く、正月などという雰囲気も気分もない。


そもそも、私の中では、盆も正月もない。

このようなことから全く縁のない生活を行ってきたからだ。

とにかく、小耳症手術を毎週3件ずつこなしていると、


8月のお盆の日でも手術しているのだから、関係ない。

もし、みんなが、お正月にも休みを取る習慣が無ければ

手術を行っているところだ。


さすがに、麻酔科の先生達も正月はお休みなので、

日本の正月の習慣に合わせざるを得ないだけなのだ。


早く正月気分が消える日になってほしい。

などと思っているから、変な日本人かもしれない。

プッチーニ作曲、「ある晴れた日に」は

世界的に有名な「蝶々婦人」のオペラの中でも特に耳に残る曲である。


ビゼー作曲、オペラ「カルメン」の、「ハバネラ」にも匹敵するほど世界中で有名な曲である。


「ある晴れた日に」は、長崎港へ再び入港するであろうアメリカ船を想像し、

蝶々婦人が歌い上げる一説である。

オペラ蝶々婦人の全てを、知らない人でも、この旋律だけは誰でも知っている。


実際に江戸時代長崎に出入りしていたのは、スペインとオランダそしてポルトガルの船だった。


純粋な乙女心を、切々と歌い上げる曲だ。


この舞台となっているのは、長崎市の南山手の高台の一角にある。

港を一目で見渡せるすばらしい場所にある洋風建築だ。


その場所に立ち、晴れた日に港を見れば、

あまりの美しさに、誰もがロマンチックになる。


その付近一帯は、江戸時代から残る多くの洋風建築や、

日本最古の大浦天主堂など、本物の歴史的な西洋の香りがする町だ。

オランダ坂という石畳の道をのぼり、、

天主堂から右へ曲がる道を歩くと、ほどなく、

当時フランス人が建築した赤レンガのそれはそれは、美しい建物がある。

中には、ステンドグラス窓に囲まれた、とても美しく白いマリア像がある。

観光客は、ここまではほとんど来ることがない。


これこそ長崎の中で本物の、西洋文化を今に伝え、

黒い服を着た本物の尼さんがいるキリスト教の建築物で幼稚園でもある。


私の心の中では、日本で最も美しい本物のヨーロッパ文化を伝える所だ。

私は、このもっとも、美しい幼稚園に通っていた。

ここで、多くの讃美歌を覚えた。


今振り返れば、

全く日本とは異なるヨーロッパ文化一色の

特殊な環境で幼少時をすごした私は、

日本人の感覚を全く持つことなく育ってしまったのかもしれない。

キリスト教の雰囲気はよく理解できるが、

だからといって、熱心なキリスト教信者というわけでもない。


やがて、小耳症専門の形成外科医となり、

最初に招待講演を依頼されたヨーロッパの国が

まず、パリで行われたフランス形成外科学会で、

そしてイタリア、ベローナで行われた小耳症学会だった。


その後も、スペイン、オランダ、ドイツ、イギリス、スイスなど、数多くのヨーロッパ諸国

への、招待講演に応じて出かけた。


私にとって、ヨーロッパの町並みと、教会のある文化とは、

長崎の南山手の風景そのものと全く同じで、

シャンソンや、カンッオーネは、子供のときから、慣れ親しんだ文化であるから、

まるで、故郷にいるような錯覚すらする。

その点私は、全くヨーロッパに違和感を感じない日本人だ。

だから、パリのモンマルトルでも、イタリアでも

現地の人といっしょに、すんなり、カンッオーネを歌って楽しみ、驚かれる日本人だ。


たとえば、京都で生まれ育った日本人なら、

ヨーロッパとはあまりにも異なる感覚を持つことだろう。


子供の頃から、サルバドール、ダリや、レオナルドダビンチを知り尽くし

3歳児からデッサン力を磨き、絵画、特に油絵を描き続けていたので、

ヨーロッパのあらゆる美術館に行っても、誰の絵かすぐわかる。


こんな私だから、文化的にも感覚的にも、全く日本より、ヨーロッパの方が

感覚的には身近に感じる。

普通の日本人と、常識も感覚も

なかなか、心底からは、合わなくて、苦労することが多い。


でも、ご飯が、好きなのだ。