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小耳症(永田法)の軌跡と新たな出発

永田小耳症形成外科クリニックは、院長・永田悟医師の逝去にともない、令和4年1月に閉院いたしました。このブログと、永田法による小耳症手術は次世代に引き継がれ、現在も行われています。小耳症手術をご検討の方は、ぜひご覧ください。

以前にもこのブログで述べたが

私の父は、長崎市出身だ。

戦争中シベリアでロシアの捕虜となり

2200名の日本兵のうち200名足らずの生還した一人だ。


極寒の地、シベリアで、森林伐採をさせられて、

捕虜収容所への帰りには、一人また一人と、

寒さと飢餓で仲間の兵士たちが倒れ、力尽きていった。

自分が歩くのに精一杯で、とてもそれらの人を助けることなど出来なかった。


捕虜収容所の柵の周囲の手が届く範囲の草という草は

捕虜たちが取り付くし、一本たりとて残ってはいなかった。

みんな食料として煮て食べたのだった。


捕虜収容所を脱走しようと企てた日本兵は、直ちにつかまり

みんなの前で銃殺された。


その兵士は、父に脱走を誘ったという。

父は、絶対につかまるから、やめるよう説得したが、実行に移したのだった。

脱走しても、周囲は広大で、ただの雪原が果てしなくあるだけで、逃げ切れるはずもなかった。


そのような時代を生きた父。

今は、もはや星空にいる。


母は五島列島から、長崎に落ちた原子爆弾の、きのこ雲を見たのだった。

「人生は一度だけしかないから、棺桶に入る前にやり残した事がないように、生きなさい。」

やりたいことがあるならば、世界中どこへでも行きなさい。」と言っていた。

生きることだけで精一杯な時代を生きた母も、星空の人である。


長崎では一瞬にして10万人とも言える人々が犠牲となった。


そのわずか前には、特攻隊として、若き日本兵が

自ら爆弾を積んだ戦闘機ごとアメリカの軍艦へ体当たりを行って死んでいった。


太平洋上の硫黄島では、

日本兵が洞窟で火炎放射器によって焼き尽くされていった。


戦争という厳しい時代、個人の人権などなかったのだった。



現在は不況とはいえ、戦時中と比べれば、幸せすぎる時代なのだ。

現代人の悩みなど、父の時代と比べればほんの些細なことに見える。

物は考えようだ。

なのに、自殺者が毎年3万人を上回るほどの日本は、病んでいる。


我々は、かつて戦争時代に生まれ死んでいった多くの人々の犠牲の結果として

平和憲法の下で暮らしている。


日本は、決して戦争に加担しない国家であり続けるべき立場なのだ。

世界中で、最も誇るべき憲法を維持している国といっていい。


この点を、最も重視して生きるべきで忘れてはならないのだ。


もっと、このような戦争時代の悲惨な歴史の教育をすべきだろう。

そうすることで、命の大切さと、平和の大切さ、を理解できるものだ。


包み隠さず、真実を教育すべきなのだ。