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小耳症(永田法)の軌跡と新たな出発

永田小耳症形成外科クリニックは、院長・永田悟医師の逝去にともない、令和4年1月に閉院いたしました。このブログと、永田法による小耳症手術は次世代に引き継がれ、現在も行われています。小耳症手術をご検討の方は、ぜひご覧ください。

世界1のテノール歌手と言われたパバロッチは若いころは、

なんとイタリアのサッカー選手だったのだ。

若いころは、太ってはいなかったのだ。

ちょと驚きだ。

プロサッカー選手になろうかどうかと、4ヶ月も悩んだのだそうだ。


パン屋の父親と一緒に、聖歌隊でアマチュアとして歌っていたそうだ。

そのあまりに、すばらしい歌声に、周りの人々から

「神の声」を生まれながらに、持って生まれたのだから、

その、能力を大切にするように勧められたのだ。

イタリア・モデナの聖歌隊で歌っていたが

聖歌隊では満足できなかったのだ。

そこで父親は、有名な音楽家の元へパバロッチを連れて行ったそうだ。

パバロッチの歌声を聞いた音楽家は、その才能に驚き、

父親の勧めもあり、本人の意志も固く

音楽家は彼を引き取って、発声法を教授したのだった。

その後6年間、イタリアのいろいろな劇場で歌い続けたのだった。

ある女性歌手と恋愛に落ち、結婚となった。

それでも、当時は貧乏な生活だったのだ。


そのうち、「ラ・ボエーム」で、オペラ歌手として高い評価を得たのだった。

その当時は、まだイタリアの地方で知られる程度の存在だった。

その後、ヨーロッパ中の劇場のツアーを行ったのだ。

パバロッチの身長は180センチを超えていたのだ。

当時有名だったサザーランドというソプラノ歌手が、

自分より背の高いテノール歌手を探していた。

そこで、二人の競演が行われて、大成功を収める。

アメリカ・マイアミでの講演予定だった歌手が突然降板となり、

サザーランドの勧めもあり、パバロッチは、1996年マイアミの舞台で成功を収めたのだった。

なんと50歳を越えてから、世界的に爆発的に名をなしていった。

ついに、イギリス王室歌劇場で、彼の[ハイC]の声は、いかんなく発揮され、

テノールか主として世界に不動の地位を築いたのだった。

やがてニューヨークのメトロポリタン歌劇場での講演で、

パバロッチの歌声は、神話ともいえる地位を確立したのだった。


その後はロックスターのように、有名になり、

パバロッチのおかげで、

これまで、オペラを知らなかった人達まで、オペラを知るようになったのだった。

マスコミも、パバロッチの講演を世界中に好意的に放映し

世界中が彼を知ることとなった。

地位と名誉を手に入れた後も、地道な音楽活動を続けたところが彼のすごいところである。

後継者の発掘のためにも、パバロッチ・コンクールを開いたのだった。

プラシッド・ドミンゴおよびホセ・カレーラスという2人のスペイン人達と

3大テノール歌手としての競演が、これまた世界中にヒットとなった。

パバロッチは、3大テノールの中でも、別格だった。


ご存知のように、テノール歌手として世界中が知るようになってからは

超肥満となっている。


若いころサッカー選手だった彼は、

イタリア、アメリカ、パリでのサッカー・ワールドカップの際、

3大テノールの競演を依頼されて開いたのだった。

世の中、不思議なめぐり合わせが起こるものである。


パバロッチ・アンド・フレンズのシリーズでは、オペラ介以外の

世界中の一流ロック歌手や、その他の有名歌手達との

競演を行い、次々と話題となった。

まことに、歌一筋の人生だった。

2006年6月癌となり、余命一年と医者から悲しい先刻を告げられる。

その冬。彼はトリノでのオリンピックの開会式で、

「トゥーランドット」を歌い上げたのだった。



そして、2007年9月一生の幕を閉じたのだ。

世界中の人たちから惜しまれて。















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