2002年カナダ・トロントの子供病院のロナルド・M・ズッカー教授から手紙が届いた。
要約すると
「北米大陸の拠点としてトロント子供病院に
小耳症再建センターを立ち上げたいのだが
そのためには、ぜひここに、
あなたの存在とサポートが必要なのです。
どうしてもお願いしたいのです。」との内容だった。
そういえば1年前にトロント子供病院から
私の小耳症手術を2名の医師が2週間ほど見学に来ていた。
デイビット・フィッシャー医師とレイラ・カスライ女医だった。
当時、私の所には台湾のチャングン大学[名実ともアジア有数・ベッド数1万以上・形成外科医だけで50人以上]から
ズン・チャン・チェン医師が1年間予定で留学中だった。
彼はユーレイ・チェン教授[顎顔面外科の世界的権威]、およびフー・チャン・ウェイ教授[マイクロサージャリの世界的権威]からの
推薦状があり
チャングン大学から生活費40万の仕送りという
破格の待遇を受けての留学だった。
フィシャー医師はかつてチャングン大学に留学していたこともあり。
皆よく話がはずんだ。
そのとき[小耳症手術を学ぶには1年の留学期間ぐらいでは無理だ。」と
チェン医師がトロントからの2人に話していた。
カナダ・トロントに到着。
ズッカー教授が言うには、
トロント子供病院およびトロント大学としては「永田法による小耳症センターを立ち上げるので
毎年最低8ヶ月でいいから、教授としてきてくれないだろうか。」
ということだった。
私は[10年先まで日本で小耳症手術の予約があり、
これは日本人の患者との約束だから
毎年8ヶ月は絶対に不可能だ。」と即断った。
するとトロント大学ピーター・ネリガン学長が
「それならデイビッド・フィッシャー医師[トロント子供病院]と
レイラ・カスライ女医[トロント大学]の2名を
永田法が出来るようになるまでどうか教育して下さい。
お願いします。」と頼んできた。
私はそこで学長を前にして2名に向かって言った。
「小耳症手術を生涯の仕事として死ぬまでやり続けると約束するのか?」
「途中でやめてしまうくらいなら教えないぞ。」と。
すでにフィシャーは唇裂ではアメリカ形成外科学会で
インストラクショナルコースをやるくらい高い能力の持ち主だった。
「唇裂は誰でも出来る手術だから後輩に譲る。私[フィッシャー]もカスライも2名とも小耳症手術を専門として生涯続ける覚悟です。」
と答えた。
2名の真剣な目を見て私は言った。
「これだけの証人の前でやると誓ったのだから教える事にする。」
この後私はトロントと台北の2施設へ
定期的に毎年教育のため飛び回る事になってしまった。
サーズ[高熱・死亡する事もある伝染病]が台北とトロントで流行した年だけはいけなかったのだが。
要約すると
「北米大陸の拠点としてトロント子供病院に
小耳症再建センターを立ち上げたいのだが
そのためには、ぜひここに、
あなたの存在とサポートが必要なのです。
どうしてもお願いしたいのです。」との内容だった。
そういえば1年前にトロント子供病院から
私の小耳症手術を2名の医師が2週間ほど見学に来ていた。
デイビット・フィッシャー医師とレイラ・カスライ女医だった。
当時、私の所には台湾のチャングン大学[名実ともアジア有数・ベッド数1万以上・形成外科医だけで50人以上]から
ズン・チャン・チェン医師が1年間予定で留学中だった。
彼はユーレイ・チェン教授[顎顔面外科の世界的権威]、およびフー・チャン・ウェイ教授[マイクロサージャリの世界的権威]からの
推薦状があり
チャングン大学から生活費40万の仕送りという
破格の待遇を受けての留学だった。
フィシャー医師はかつてチャングン大学に留学していたこともあり。
皆よく話がはずんだ。
そのとき[小耳症手術を学ぶには1年の留学期間ぐらいでは無理だ。」と
チェン医師がトロントからの2人に話していた。
カナダ・トロントに到着。
ズッカー教授が言うには、
トロント子供病院およびトロント大学としては「永田法による小耳症センターを立ち上げるので
毎年最低8ヶ月でいいから、教授としてきてくれないだろうか。」
ということだった。
私は[10年先まで日本で小耳症手術の予約があり、
これは日本人の患者との約束だから
毎年8ヶ月は絶対に不可能だ。」と即断った。
するとトロント大学ピーター・ネリガン学長が
「それならデイビッド・フィッシャー医師[トロント子供病院]と
レイラ・カスライ女医[トロント大学]の2名を
永田法が出来るようになるまでどうか教育して下さい。
お願いします。」と頼んできた。
私はそこで学長を前にして2名に向かって言った。
「小耳症手術を生涯の仕事として死ぬまでやり続けると約束するのか?」
「途中でやめてしまうくらいなら教えないぞ。」と。
すでにフィシャーは唇裂ではアメリカ形成外科学会で
インストラクショナルコースをやるくらい高い能力の持ち主だった。
「唇裂は誰でも出来る手術だから後輩に譲る。私[フィッシャー]もカスライも2名とも小耳症手術を専門として生涯続ける覚悟です。」
と答えた。
2名の真剣な目を見て私は言った。
「これだけの証人の前でやると誓ったのだから教える事にする。」
この後私はトロントと台北の2施設へ
定期的に毎年教育のため飛び回る事になってしまった。
サーズ[高熱・死亡する事もある伝染病]が台北とトロントで流行した年だけはいけなかったのだが。
な・・なんかかっこいいですね
2006.12.01 20:06 URL | かわ #- [ 編集 ]
そのあと何年も私はたいへんだったのです。
その他の学会にも行かねばならず。
ちょーいそがしとなってしまったんです。
それで、この2年くらい日本の学会は
おやすみしています。
2006.12.01 20:55 URL | サルトル #- [ 編集 ]
トラックバックURL↓
https://acrejuvenation.blog.fc2.com/tb.php/48-cfec18a0